William Rennie Wood
創業以来、身を粉にして「カナダ留学を日本の若者に」と頑張ってくれたピュアカナダの生みの親、ウィリアムをご紹介いたします。
2003年1月23日
この日、僕はSkypeでウィリアムとミーティングをしていました。
「明日はペンダーアイランドに行って、ロブとエレンと会ってくるから
ミーティングはできないけど、帰ってきたら話そう」
「分かった、気を付けて!ロブとエレンによろしく」
何気ない会話、いつも通りのミーティングでした。
まさか、この会話が僕たちの最後の会話になるなんて…。
1995年5月
あの日、カナダの路上で路頭に迷っている私を拾ってくれたのがウィリアムでした。(その時のエピソードは こちら )
ウィリアムと出会って以来、カナダのキッチン、カナダのテレビ、カナダのトイレ、カナダのお風呂、カナダの建物、カナダの空気、何もかもが新鮮でした。
英語力があまりにもない僕でしたが、ウィリアムは、我慢強く私の言葉に耳を傾け、そしてゆっくりした英語で私に様々な話をしてくれました。
僕はウィリアムの後をついて回り、一緒に掃除をしたり、料理をしたり、犬の散歩をしたり、新しい発見の毎日でした。
ウィリアムが自分の生い立ちのことを話してくれたことがありました。その時のことをよく覚えています、ラムのコーク割りを飲みながらのことでした。
彼の出身地はアルバータ州エドモントン市という街であること。彼のキャリアのほとんどを、障害を持った人や犯罪を犯した人、非行少年等、心や身体が健康でない人々のカウンセリングを行ってきたこと。将来の夢として、バンクーバー島に別荘を持ちたいこと。そして生い立ちではありませんが、飼い犬のキャーラは前の飼い主に虐待されていたところを引き取って育てたということ。
そういえば、理由は覚えていないけれど、お互いにめちゃくちゃに大声で怒鳴りながら、大喧嘩したことが一度ありました。英語が全然できないのに、どうやって喧嘩したんだろう…。やっぱり日本語で怒鳴ってたのかもしれません…。
時には彼の愛車のフォードに乗って、山に連れて行ってもらったり、海に連れて行ってもらったり、孤独でロンリーな最初の3日間からは考えられないほど充実した時間を過ごさせてもらいました。
ある日僕は、英語力を磨きたいと思い彼に「学校に通いたい」と相談しました。インターネットがまだまだ普及していなかった時代、ウィリアムは電話帳を取り出して語学学校をいくつかピックアップし、連絡を取ってくれました。比較も何もせずに、直感だけで決めたので、語学学校はすぐに決まり、新しいホームステイ先に移ることも決まりました。
ウィリアムと出会って2週間が経過した日の朝。その日は僕の学校初日であり、新しいホームステイ先に移動する日でもあり、そしてウィリアムとのお別れの時でもありました。僕は全ての荷物をまとめて車に乗り込み、学校まで送ってもらいました。そして学校の前でウィリアムと握手。
それから11ヶ月が経過しました。
1996年4月
あの日から、僕は一度もウィリアムに連絡をしませんでした。特に理由があったわけではなく、ただ恩知らずな僕が新しい学校、新しい友達、新しいホストファミリーにワクワクで、何となくウィリアムから離れてしまったというのが実情でした。
ワーキングホリデーのビザも残すところ2週間となり、帰国の日が近づいていました。11ヶ月を経て、色々な経験をして仲間もできて、英語も少しは“まし”になっていました。1年間の初海外生活を振り返っている時、ふと僕は「ウィリアムに全く連絡をしていない」ということに気づきました。自分の新しい生活が楽しく、大恩人であるウィリアムのことを思い出すことすらなかった自分が本当に情けない人間であることにようやく気づきました。「恩知らず、ろくでなし、大馬鹿野郎」そう自分を責めました。
残り2週間を切った滞在期間を目の前にして、僕は「どうしてもウィリアムに会わなければならない。会って、今まで連絡しなかったことを謝って、そして感謝の気持ちを伝えなければ…」と強く思いました。
僕は恥を忍んで、当時のウィリアムの電話番号にかけてみました。
「お客様のおかけになった番号は、現在使われておりません」
無情にも電話番号は通じませんでした。そこで、ウィリアムと2週間を一緒に過ごした家に行きました。しかし、そこはもぬけの殻。ウィリアムは引っ越してしまっていました。
引っ越したウィリアムの居場所を最終的にどうやって探し当てたのか。僕はいまだにどうしても思い出すことができません。目の前が真っ暗で、とにかく必死に探したのだと思います。最終的に僕はウィリアムがバンクーバーの隣のバーナビーというところの新しい家に移ったということを何とか突き止めることができました。
約束の日、ウィリアム宅に到着しました。11ヶ月ぶりの再会に胸の鼓動が高鳴ります。何より不義理をしていた自分に対してどんな言葉が飛んでくるのか、どんなに叱責されるのか、何を言われる覚悟もできていました。罵倒されても、謝り、感謝の言葉を伝えたかった。ただそれだけでした。
扉が開くと、ウィリアムは満面の笑顔で迎えてくれました。キャーラも一緒です。ウィリアムはずっと笑顔でした。僕は彼に謝り、そして感謝の気持ちを伝えました。そして彼に尋ねました。「怒っていないのか?」と。
彼は答えました「なぜ怒る必要がある?Junjiはこうして私に会いに来てくれた、しかも引っ越した先を必死に探して。私は本当にハッピーだよ」
それから
僕は帰国後もウィリアムと定期的に連絡を取り合いました。ある日、ウィリアムから「お前が生まれた国、日本に行こうと思う」と連絡がありました。当時の僕は、大阪でドッグフードを売る会社に勤めていました。彼が日本に来るという連絡を受けて、僕は昔アルバイトをしていた京都の老舗旅館を予約しました。
そして幾日か経過し、ウィリアムが来日。旅館の部屋で、2人で日本酒を酌み交わし、ほろ酔いの彼がこんな話をしてくれました。
「Junjiと初めて会った日のことは今でも覚えている。そして帰国直前に連絡をくれた日の喜びも鮮明に覚えている」
彼は続けました。
「Junjiと出会って、日本の若者のエネルギー、礼儀正しさ、まっすぐな情熱、素直さ、笑顔の全てが新鮮だった。そしてこれまで病院や老人ホームなど健常者でない人たちと働いてきた自分にとって、Junjiのような若者の為に働く事は人生の喜びだと感じた。帰国前のあの日、Junjiが私に連絡をくれた時、私の中で大きく何かが変った。Junjiが私の人生を変えてくれた」
それを聞いた僕は涙が溢れました。
僕にとって彼こそが命の恩人であり、本当に僕の人生を変えるきっかけをくれた人なので、彼がそう話してくれたことには驚きました。そして同時に喜びでいっぱいにもなりました。
この日から2年の月日が流れ、私は日本で、そしてウィリアムはカナダで、それぞれピュアカナダを創業し、日本の若者に「人生が変わるほどの素晴らしい冒険」を提供すべく経営を続けています。
そしてこのページの冒頭に戻り、2003年1月23日。あの会話が最期となり、翌24日、ウィリアムはペンダーアイランド行きのフェリーの中で帰らぬ人となりました。心臓発作でした。
ウィリアムが逝ってしまったあの日から、かなりの時間が経過しました。ウィリアムと語り合った夢。
【日本人の留学生に安心で安全で、本人とご家族にとって幸せな、そして人生を変えるきっかけになるような、明るい人生の一歩になるような、前向きになれるような、ゼロからプラスになれるような、ゲラゲラ笑いあえる友に出会えるような、成長のできる、そんな留学のお手伝いをする会社を作ろう】
今もまだまだ道半ば。背伸びする日々です。
ウィリアムと描いた夢を実現するために、これからも精一杯取り組んでいこうと思っています。
ウィリアム、あなたのおかげで今の私たちがあります。
あなたは人生の恩人です。
本当にありがとう。